岩手県を訪ねて4日目。
最終日です。
最終日は、2日目で見学に訪れた陸前田市へ。
2日目では、見れなかった「陸前高田市役所」と「県立高田病院」に
足を運びました。
9月11日は、震災からちょうど半年という節目の日でしたが。
陸前高田市内は、まだ瓦礫などが多く残っていました。
「陸前高田市役所」です。
市役所の中は、当時のままでした。
市役所の職員の方も、避難指示や業務のために建物に残っていて被害にあわれた
方もいるとのこと。
その後、「県立高田病院」に行きました。
病院は、四階建てでしたが四階部分にまで津波が来たとのことです。
内部の時計は、あの時のままで時を止めていました。
参加した学生は、この光景を見て「言葉にならないような絶望的な景色でした。」
と述べていました。
今後、現地でおこなわれる復興が被災地の想いに寄り添うかたちの
復興であることを心から願いたいと思いました。
タニ でした。
被災地から・・・その2
被災地から
岩手県に入り3日目です。
3日目は、昨日に続いて岩手県大船渡市を訪れました。
大船渡市の社会福祉協議会の災害ボランティアセンターに依頼をして
ボランティアに参加してきました。
ボランティア内容は、震災で被害を受けて個人のお宅を訪問してボランティア活動を
おこなうというものでした。
訪問した個人宅は、沿岸部から少し離れていました。
一見すると、こんな場所まで津波が来ているのか?と思いますが・・・・
カーブミラーなども倒れており、津波の怖さを物語ります。
個人宅を訪問して印象的だったのは、
家主さんから「朝早くからご苦労様。来てくれてありがとう。」
という言葉をボランティア参加者の全員に伝えていたことでした。
ボランティア参加者が全員がそろうと家主さんが静かに話しだしました。
「ボランティアに来てもらい、私は皆さんに感謝の気持ちでいっぱいで
本当に頭が上がりません。私の家は、今の状況では被災をした家とは
見えないと思いますが、8月のお盆過ぎまでは庭に瓦礫の山があり
食料加工品なども、流れついて悪臭とハエに悩まされていました。
市やボランティアのお力を借りてようやく今の状況になりました。
被災者の状況はさまざまです。報道などで見て、イメージを固めて
現地に来られる方もいますが、ボランティアに参加するのにイメージは
固めないで頂きたい。被災者がボランティアに参加された方の希望に
そった内容の作業を提供できるとは限りません。ボランティア精神は
無償の愛が前提だと思います。皆さんにもこの精神で活動をして頂け
たら、現地の被災者は本当に助かります。作業前にこの様な事を言って
すいません。気分を悪くした方もいるかも知れませんが、これが被災した
私たちの気持ちです。誰かが代弁しないと、気持ちのずれが大きくなると
考えて話をさせて頂きました。」
後ほど、お話を聞くと自分たちより前にボランティアに参加された人から
心ない言葉を言われたとのことでした。
あらためて、ボランティアとは何かと考えると同時に
現地で起きている問題を知ることができる言葉だったと思います。
家主さんからの言葉を聞いて参加者全員が、気持ちを奮い立たせる
ボランティア活動に参加できたと思います。
「お茶っ子会」とは、違った意味で被災地の人と心を通わせることが
出来たと感じる一日でした。
タニ でした。
被災地へ 2日目
岩手県での活動も2日目を迎えました。
この日は、午前中に被災地の陸前高田市と大船渡市を見学してきました。
被災地見学は最終日の報告と一緒にブログに書きたいと思います。
被災地見学後に盛岡医療生協が大船渡市の依頼を受けて、大船渡市の仮設住宅を職員が訪問して
血圧測定や介護予防の体操などを行っている「お茶っ子会」に参加してきました。
今回の「お茶っ子会」は、大船渡市の永浜地区の仮設住宅で開催されました。
63世帯の方が、この仮設住宅で生活されており「お茶っ子会」の開催をお知らせするために
一軒一軒、盛岡医療生協の職員さんと医学生の2名が声をかけていきました。
8名の方が「お茶っ子会」に参加されました。
まずは、血圧測定をおこない健康チェックして。
ジャンケン体操!!
次に、盛岡医療生協の職員さん考案の「水戸黄門体操」
そして、一番盛り上がった!!
風船バレー大会
その後は、お菓子とお茶を飲みながらの座談会です!
医学生2名が参加しているということもあり、医学生に質問が飛び交います。
「血圧の数値がいいのか悪いのか教えてほしい。」
「最近、物忘れが激しい。家に居ても何もすることがないので
どうしたらいいか。」などなど
医学生たちも真剣に答えていました!!
「お茶っ子会」に参加させてもらい、印象的だったのは参加された皆さんの
「笑顔」でした。
被災後、半年という時間が経過する中で少しずつそのような状況になったんだろと
感じました。
でも、それぞれの方には色々な問題を抱えているとも感じることが何気ない会話の中で
感じる事が出来ました。
タニ でした。
被災地へ
9月8日から11日にかけて2度目の震災支援のボランティアに
参加してきました。
今回、震災支援に参加をしてきた場所は
岩手県です。
岩手県にも医療生協の病院「川久保病院」があります。
川久保病院がおこなっている、被災地での活動に医学生2名とタニで参加してきました。
8日は愛媛からの移動なので、15時過ぎに岩手県の盛岡市に到着しました。
その後、川久保病院に向かい。震災当日の話や被災地への医療支援の話を
川久保病院の小児科医である、小野寺Drから報告を聞かせて頂きました。
川久保病院は、盛岡市内にありましたが3月11日はライフラインが全てストップしたとのこと
その後、TVやラジオなどで被害の大きさを知り沿岸部の被災地に
川久保病院内のライフラインの復旧や患者の安全を確保してから医療支援に入ったと。
沿岸地域には「大船渡市」を中心に2000人の組合員さんがいて、
瓦礫の中を一軒一軒訪問して安否を確認したそうです。
3月20日からは、「陸前高田市」の避難所を訪問して、衛生面での医療講和の話などの
活動を避難者の要求から始めていたそうです。
避難所訪問や個人宅への医療支援は5月末まで続いたとのことでした。
6月からは、「大船渡市」の要請を受けて仮設住宅を訪問して「お茶っ子会」という
活動を始めているとのことでした。「お茶っ子会」の内容は次回のブログで書きたいと思います。
小野寺Drからの話は、今の現地の被災地で起きている問題も聞くことが出来ました。
「先が見えない不安な気持ちや、震災で仕事を失った人が急性アルコール中毒で多く
現地の病院に運ばれている現状があります。また、被災地の開業医もこの震災を受けて
現地で医療を続けて行くかどうか考えている医師も増えている。現地の問題は日に日に変化を
していきます。一時的な支援も確かに必要ですが、私たちは細くても長く支援を行っていくことを
病院全体として取り組んでいきたいと考えています。」
岩手の被災状況や現在の問題を考えるには十分過ぎる内容でした。
小野寺Drの報告から
小児科の外来に生後2カ月の子供連れて、診察に来たお母さんがいたそうです。
小野寺Drが「父親はどうしたんですか?」と聞くと
母親が「陸前高田市から避難してきて、夫は陸前高田市の職員です。
津波でながされてしまい、まだ見つかっていません。
夫が見つかるまで、子供に会わせてあげたいと考えて陸前高田市に
残っていましたが、体調なども悪くなり盛岡に来ました。
本当は、早く陸前高田市に戻りたい夫も待っていると思う。」
と涙ながらに話されたそうです。
その後、母親から「先生、夫が見つかりました。早く子供と会いたいと思うので
陸前高田市に戻ろうと思います。」と言われたそうです。
震災支援は2日目に続きます。
タニ でした。
震災支援終了。
4月20日で震災支援が終了しました。
愛媛チームは朝の全体ミーティングに参加して、
東京行きのバスに乗り込みます。
一週間という時間は、アッという間に過ぎて行きました。
凄い早さで過ぎた時間ですが、とても密度の濃い時間でもありました。
自分の出来たことを考えると
微々たることでしかないかも知れませんが、
誰かの何かの役に立っていればと思います。
本音を言えば、もう少し宮城に残り何かができればと考えることもありましたが、
限られた時間や期間の中で、出来る仕事をおこなうことも
一つの方法だと考えて残りたいと言う気持ちを切り替えました。
また、今回は多くの全国の支援者と仕事をしたり、会話を交わすことが出来て
自分の仲間が増えたようにも感じることができました。
同じ時間を共有して、同じ目的で行動をすることで普段は感じる事ができない
一体感を強く感じたのかも知れません。
やり残した仕事の方が多いかも知れませんが、
今回の宮城県坂総合病院での支援活動は終了です。
今回の支援の経験を生かして、次に自分が参加をする支援活動に生かしたいと思います。
タニ でした。
震災支援その5.。。
4月19日。
震災支援日の5日目のスタートです。
宮城の坂総合病院で活動をはじめて、一週間になろうとしていました。
一週間ほど支援活動を行っていると全国の支援者ともかなり仲良くなれましたが。。。
支援を終えて帰るメンバーも出てきます。別れは、寂しいものですが。
事務局で一緒に仕事をしたメンバーの、鳥取のタナカさん、静岡のタカシマさんも
支援活動を終えて、帰路について行きました。
20日の朝には愛媛のチームも支援活動を終えて帰路につきます。
残り、1日でしたが自分たちに出来る活動を精一杯することができました。
夜の訪問活動を終えて、多賀城市文化センターの支援メンバー全員と
記念撮影をしました。
また、何かの機会にはお会いしたいと感じる宮城の最後の夜でした。
タニ でした。
4月18日。震災支援4日目
深夜0時過ぎの、変なテンションから目を覚ますと。
4日目のスタートです。
4月18日からは、多賀城市総合文化センターの事務局として活動します。
多賀城市文化センターには、午前10時から午後12時までと
午後19時~20時までの1日2回訪問を行っていました。
この日の訪問チームは30名でした。
診療チーム・ラウンドチーム・足浴チームにわかれて活動します。
問診スペースは、病状を訴える人や血圧測定を希望される方など
様々な人が来られます。
診察スペースも、18日から専用の個室を文化センターから提供してもらえたり
足浴チームは、常時5~6人の人が待っている状況が続いていました。
足浴チームでは、入浴剤を使った足浴を行うなど利用される方がリックス出来るように
心がけてました。その中で、震災した時の状況など色々な話を聞くことができました。
避難所訪問は、訪問する度に様々な問題が起こります。
そのたびに、臨機応変に対応することが求められました。
タニは、医療従事者ですが事務職なので直接の医療行為などが
出来る訳ではありませんが、避難所訪問で被災者の方の対応をするたびに
何かの役には立っているとい実感を感じれました。
この日から、オーエスワンでの栄養摂取が必要となった
タニ でした。
震災支援その3
4月17日、震災支援3日目がスタートしました。
この日は、多賀城市総合体育館の訪問に行きました。
先日、ブログで書いた多賀城市文化センターより少し規模の小さな避難所になります。
タニは足浴隊のメンバーとして、足浴を利用される方に快適なお湯を供給する担当になりました。
17日の避難所訪問は、午前中で終了でした。
17日の午後からが、激動の日々がスタートしました。
訪問には、事務職員が事務局として配置をされるのですが・・・・・
この、事務局にタニが任命をされてしまったのです!
事務局のお仕事は、避難所訪問時に、訪問チームの仕事が円滑におこなえるように
事前の準備や訪問チームのメンバーの役割分担を決めたり、避難所との打ち合わせなと
まさに、訪問チームの黒子役としての仕事をすることになりました。
多賀城市総合体育館の事務局さんです。
タナカさんは、鳥取医療生協から支援に来られていました。
実は、タニの知り合いです!
18日の多賀城市文化センターの訪問に備えて、事務局の先輩からアドバイスをもらいながら
仕事を進めました。
実は、17日はもう一つ特別な日でした。
愛媛のハラDrの誕生日だったのです!
ささやかですが、夜に仲良くなった全国の支援者と一緒にお祝いをしました!
誕生日会後、タニは仕事にもどり・・・・・
時間はどんどん過ぎて・・・
タナカさんは、変なテンションになり。
3日目が終わり、4日目がスタートした。
タニ でした。
震災支援その2
4月16日。震災支援2日目がスタートします。
朝礼に参加をします。元気な愛媛チームのPTさんです。
この日の予定は、多賀城市総合文化センターへの医療訪問でした。
多賀城市総合文化センターは坂総合病院の近くにあり
市内で一番大きな避難所となっており、800人ぐらいの方が
避難生活を送っていました。
医療訪問チームは、医師・看護師・薬剤師・その他技術職からなる20人ほどのテームです。
文化センターにつくと、医療訪問チームでのミーティングがおこなわれます!
避難所には様々な支援者の方は入っているので、どこの団体かがわかるように
ジャケットを着て活動しました。医師はオレンジ・看護師はピンク・その他はミドリ
となっていました。
避難所でおこなう活動は、診察・避難所内のラウンド・足浴の3つの活動にわかれて
行動しました。
診察ブースを作ったり
足浴のブースを準備したり
準備が出来たら活動開始です。
問診ブースで詳しい症状の内容などを聞いた後に診察ブースに入ってもらいます。
足浴チームは人気チームです。小さい子供から高齢者の方まで
様々な人が利用をされます。
初めて避難所に訪問をしたのですが、避難所には様々な方がいらっしゃいました。
家族で避難されている方・高齢者で一人で避難されている方
ペットを連れて避難されている方などが慣れない避難生活を送っている
現状を知ることができました。
自分ができる事を何でもしたいとさらに強く感じる震災支援2日でした。
偶然、全国からの支援者の中に岡山の知り合いの看護師さんを見つけた
タニ でした。
震災支援
4月15日より、本格的な震災支援がスタートします。
愛媛チームも気合十分です!
東北地方の朝の冷え込みの厳しさを教えてもらった部屋で
白衣を着るハラDrです。
朝一番に、全体の朝礼があります。朝礼で、昨日の避難所訪問の様子などが報告され
色々な情報が共有出来ます。
タニは、長町クリニックの病院片づけに配属先が決まり向かいました。
長町クリニックは、坂総合病院から車で40分ぐらいの場所にありました。
3月11日の震災で建物に大きな被害を受けており取り壊しが決まっていたので、
クリニック内にあるカルテなどの必要な資料を引越しさせることが仕事でした。
天井が崩れていたり、建物の瓦礫が飛び散っていたり。
約20名の支援者で引越し作業を頑張りました。
夕方になり支援が終了して時間があったので、若林地区という別の被災地を見ました。
老人ホームが津波の被害を受けていたり、住宅街のハズが家が一軒もなくなっていたり、
あらためて被害の大きさを感じました。
一日目の支援が終了。
タニ でした。